
今、燕が飛び廻っているがこの島のことが全く分からない。
餌は昆虫なのだろうが、小さな昆虫をくわえるのにあのスピードで掴まえるのは至難の技としか思えない。超遠視か鳥眼でも持っているのだろうか。
今年もまたいつもの場所に巣を作るべくやってきている。心待ちにしていたので嬉しい限りだ。
しかし疑問に思うのだが、去年のカップルと同じなのか、それとも新カップルなのか。
鳥が同じカップルを続けるとは思えないので新カップルとすれば、巣作りの場所が毎年同じ場所というのはどういう基準があるのだろうか。
地上から2m40cmの高さの、30cmしか奥まっていない建物下の蛍光管を利用して造っているのだが、通りから丸見えで人間の手の届く高さでしかない。として安全とは思えない位置で、事実卵が生まれて、暫くたったころカラスに襲われた。1個が持って行かれ残りは下に落とされ割れていた。
また学校帰りの小学生に昆虫網で巣を落とされたことがあった。それに気づいた私はすぐに近寄り大声で「なんて可哀想なことをしたんだ。つばめさんに謝れ」と怒鳴った。
親ツバメが2羽、電線に止まってこちらを見ている。
「手をついてごめんなさいと言いなさい」と諭した。
彼らは今中学生で、自分たちのやったことを一生憶えているだろう。
下田白浜 高村
22年5月29日
# by sunnystep_bigin | 2010-05-29 17:05 |
親父のつぶやき
これから少し私にとっては「訳の分からない」ことを書きたい。

広辞苑によると、この意味は「条理・物の道理」の筋道が通らないこととあるが、私はもう少し広く解釈し、
①私自身道理が分からない場合、と、
②自身の持つ道理が世間と違っている、場合も含めて「訳の分からない」ことがある。
これ等は言い換えれば私の物事知らず、無知および老人の時代遅れ常識のなさからくることである。
知っている方がいらっしゃれば教えていただきたい。
霧と霞と靄(もや)と雲の差異が全く分からない。
サニーステップは東に海を臨み、海際を走るR135から山側に約200m入った所にある。
少しだらだら坂を登るので沿岸は窓からは見えないが、大島が一望できる。
反対側の西側は焼く7~800m先に、2~300mの高さの山が連なっている(天城連峰の南端に位置する)のだが、その山が水蒸気に包まれるのである。その水蒸気の正体が何なのか分からない。
春霞、朝靄、朝霧などという言葉通り山裾から薄っすらと立ち上ることが多いが、時には山頂を隠す程のこともあるし、雨模様の日には雲だかなんだか分からなくなる。これから梅雨の時期を迎えるのでその様子は一層強くなる。
こんなあり様を見ながら私は毎日窓越しに山々を見ている。
ささやかな私の楽しみのひとつです。
# by sunnystep_bigin | 2010-05-19 17:45 |
親父のつぶやき
こうして亡友のことを書いてくると、思い出すことがまた出てくる。
ガンが見つかった頃だったか彼宅に伺った時、彼が、
「タカムラも俺も余り組織的な人間ではなかったよな」と云ったことがあった。
全くその通りで、彼は特に非道かった。

有名私大を出て、某大手化成会社に決まり、宮崎延岡の本社工場で社員教育を2~3年受けたのだが、それの終わる前後に退社して父親の経営する会社に移ってしまった。親父さんは印刷材料商を経営していて、30人位の社員はいたのだが、そこへ部長クラスで帰ってきた。いずれ後継ぎになることは決まっていたのだろうが、それにしても早かった。碌に会社とか組織、人間関係(同僚・上下)も経験せずにである。従って部下は誰一人ついて歩くことはなく、昼食ですら1人で食べていたらしい。
その頃は昭和40年代の日本が高度成長の時で、印刷業も忙しかった時であろう。
「3C(カラーテレビ・クーラー・カー(自動車))」と言われた頃である。
親父さんは新橋の目抜き通りに4階建てのビルを造り繁盛していた。
44~5年頃だったろうか、まだ高齢ではなかった親父さんが急に亡くなり、後を継いだのが母親と彼。しかし高度成長が終わり経済の低迷に巻き込まれて止む無く廃業に追い込まれる。債権者に追い駆けられ、親父さんがあちこちに買っておいた土地を売却して弁済に当てたがそれでも足りず、その頃会った彼の言葉、「おいタカムラ、ビルまで取られてしまうかもしれない」を、今でも思い出す。
しかし最後に残った債権者が「ここで商売をしたいからビルをタダで貸してくれ。そうすれば債権放棄をする」と、妥協案を出し、無事名義は彼に残った。
しかし、無収入である。
40年代半端過ぎから約10年間、彼はマンション建設・販売をする小企業の建設会社のサラリーマンとなった。丁度マンションブームの頃であり、徐々に大きくなっていった企業であるが、そこの販売担当者だった。
(私の妹夫婦が10年の長期勤務をアメリカで終えて帰ってきたが、その間、戸建の家を他人に貸していた。今更そこへ住む気もなくあちこち探していた時、たまたま売り出し中のマンションを見学しようとした。そこへ彼がニコニコしながら現れ、「ここは止めたほうが良いよ」と云ったそうだ。彼女たちは今、飯能市の郊外の戸建に住み、秩父の自然を満喫している。)
しかしこの時の経験が後に大いに役立った。
貸していたビルが彼名義のまま返ってきたのだ。貸していた会社が倒産したからである。それをキッカケとして勤めを止め、貸ビル・貸アパート業に乗り出した。昭和50年代後半から平成に入るバブル景気に突入した時であった。
みるみる繁盛し出し、事務所を構え、女性従業員を雇い、家賃取立ての為の弁護士さんも居たらしい。「一体、何部屋もってるんだ」との私の問いに、「今、70部屋、100部屋が目標だ」と鼻息が荒かった。彼と母親と弟さん(共同経営者)は、住宅地として一級の、国立市の駅から10分程の一橋大学の近くにそれぞれ一軒家を構えて住んでいた。
そして平成2年から3年にかけてバブルが崩壊した。
バブルというのは要するに不動産の異常な高騰が最大の原因であろう。土地持ち、家持ちの人々は、「自分は資産家である」と解し、その金持ち意識が消費につながったのだった。
彼も崩壊の直撃を喰らった。政府系機関の「不良債権処理機構」に入れられてしまったのである。
その前後だったか憶えていないが、あるとき私が「いくら借金をかかえているんだ」
彼、「約12億さ、90過ぎまで返さないといけないけど今まで一度も返済を滞ったことはないよ」
取引先の銀行は全国規模の大手だったが、不良債権としたのは銀行の横暴だと私は今でも怒りを覚える。
返済が滞ったのなら仕方ないが、期間の大幅短縮が論題となるなら、それは一方的な事情変更となる。民法上、「事情変更の原則」は例外の規定であって、そう簡単に通用するものであったら契約とは一体何の意味を持つのであろうか。
不良債権者となった彼は青く困り果てた顔で私の前に現れ、「財産がみんな無くなってしまうかも知れない。」と告げた。
しかし、3~4ヵ月後に会った時は、「おい、助かったよ。信金に話を持っていったら、貸し出しましょう」となったそうだ。まさしく捨てる神あれば拾う神ありで、信金からすれば不良債権ではないということである。(まぁ、多少の返済期間短縮はあったのだろうけど)
こうして想い出すと「俺たち、組織的ではなかった」という言葉通り、彼は孤軍奮闘して世情の波にもまれ、何度も沈没寸前にまで陥り、運と努力と多少の見識によって人生を過ごしてきたことになる。
60歳を無事に通り越した彼は、8年と10日を過ぎて突然亡くなった。
老後はこれからだったのに、である。
老後というのは感謝の期間だと私は考えている。
私も彼同様、組織で暮らすことなく宿泊業を開業してから26年、家内と2人で1億2~3千万円を返済してきたが、先ずは家内に感謝すると共に、この時期に生まれ合わせてくれた両家のご先祖さまに深く感謝しなければならない。
そして次には2人をこのようにしてくれた社会にも感謝しているが、更にはこのような国民性を作った日本国にも感謝している。
テレビ・DVD・本などで外国を知るのだが、この国ほど良い国はないとつくづく思っている。
島国だからこそ独立して以来、他民族との常時の争いもなく(いやむしろ、我国の方が多少侵略的であったし、過去には蒙古国からの侵ぴつがあり、現代では米国の支配もあるにはあったが。)
同じ言語、文字で意志が通じていた国は世界でも余り例がないと思う。
親友の死は、青春時代の思い出話すら出来なくなり、完全に青春は遠い昔の単なる私個人の思い出だけでしか過ぎなくなると同時に、「余命」という言葉をしきりに思う今日この頃であるが、残された年月を大切に生きたいものとつくづく思っている。
22年5月10日
サニーステップ 高村宣行
# by sunnystep_bigin | 2010-05-10 10:10 |
親父のつぶやき
前回に続き亡友のことを続けます。

伊豆半島一周の4日目は土肥まで行った。大仁、修善寺を通過して青羽根から現在の136号をとおり船原峠越えである。
その頃は国道~号という呼称はなく、しかも1級と2級とに分かれていた。例えば現在の1号線は1級東海道線である。それが全て~号線となったのは昭和40年3月からだそうだ。従って私たちの通った136号はその頃は未だ名称としてはなく(2級国道下田三島線)、しかも現在とは道が違っていた。今では大仁、修善寺共町のはずれを直線的に開発されているが、当時は街の中をうねうねと通じていた。そして特に修善寺では現在の地図で見ると136号は狩野川の左を通っているが当時は川を挟んで右側を通っていて現在は県道349号となっている。
船原峠は箱根ほどではないが、その登りを皆必死で登り、ようやく土肥へ辿り着き海岸でテント。5日目は下田まで、仲間の1人に親類がいらっしゃるということなのでお世話になるようなんとしてでもという次第。
今の136号のようにアスファルトでしかも直線的な道路ではなく、全て砂利道でしかも途中にある部落(宇久須、安良里、田子等)へいちいち下り、また登りの連続だった。ちなみに136号は昭和54年~5年頃に現在の姿になったようで、そのきっかけは当時の知事が西伊豆出身の方でみるにみかねて整備なさったのでしょう。
私達はその旧国道の砂利道を景色どころではなく庶二無二漕ぎ続けて松崎まで走り、半島を横断する現県道15号を下田に向かった。
相変わらず砂利で途中婆娑羅(ばさら)峠越えである。峠にはトンネルがあったがそれは明治41年のもの(現トンネルは昭和45年)。従って巾は狭く出口は見えるが1車線程度のもの。トンネルまでと出てからも七曲りでくねくねしていて勿論砂利道であった。もう夕方で冗談どころか口もきかず下田へ向かう。そして可成り下ったところで蓮台寺温泉の明かりが見え出した。勇気百倍でなんとか下田に着いたのは夜だった。皆疲れ切っていて親類宅で2晩お世話になった。
そしてこれ以上の旅行は無理と衆議一決して、荷物と自転車はそれぞれ自宅へ送った。身体ひとつ交通機関で帰ったのであるが、その頃は未だ伊豆急がなく(開通は4年後の38年)バスで伊東まで行き、伊東線東海道線と乗り継いで帰った。ただ帰途のことは全く憶えておらず、どの道をバスで走ったのか(当然135号も全線は今のように開通していない)勿論景色などは見ることもなく寝入っていたと思う。
亡友のこととは話が逸れ気味であるが本題はこれからであって、ガンが発覚する半年くらい前に1泊で私宅へご夫婦で来たことがあった。
その時半日かけて50年前に走った道を案内したのだが、大仁、修善寺同様町の中を松崎、下田とも通っており「当時はこの道を走ったはずだ」と連れ走ったのだった。走り出して30分ほど経ったとき、後部席に居た奥さんが車酔いし出し、ビニール袋を口に当てて「ゲーッ」とやっている。私が「オイ、どうする」と声を掛けたら彼は「しょうがない。このまま続けてくれ」とのこと。奥さんは文句も言わず青い顔をしながら私達に付き合ってくれた。
圧巻は婆娑羅トンネルである。現在のトンネルから2~30m離れた山奥側にそのまま残っており、両入り口共に頑丈な鉄格子で囲って使用不能となっているだけで内部の様子はなんとか分かるようになっている。
彼はそれを見て「ウーム、俺たちは細くて薄暗いこのトンネルを走ったのか」と感心しきりであった。そして現県道のところどころに当時七曲りだったS字の道が残っているので、そこをいちいち走ってみせた。勿論、松崎、下田の町なか道も全部車で走って見せた。彼は「そうだよな、あの頃はこんな桜はなかったよな」と言う。現在の15号沿いには松崎も下田も染井吉野が大木に成って立っているのである。
「人は死ぬ時、過去を走馬灯のように思い出す」と云われているが、
彼もきっとこの時のことを思い出してくれたであろう。
私は朝に夕に彼を思い出し、「オーイ、元気でいるか」と声をかけている。
いずれ私も彼のそばに行く時は来るが、その時声をかけ合うどころか目と目で合図すら出来ないけど、いのちといのちはきっと通ずるであろう。
22年4月23日 サニーステップ親父
# by sunnystep_bigin | 2010-04-27 15:13 |
親父のつぶやき
亡き親友のことを書き続けたい。
昭和34年に高校を卒業したのだが、その頃は未だ貧しい時代だったので浪人するなどは珍しいことだった。
同級生達も実力に見合った大学へそれぞれ合格していた。(亡友は有名な某私立商学部)
入学式迄は高校卒業から約2週間ある。
その期間を利用して自転車で伊豆半島を一周しようということになった。
5~6人である。
サイクリング車など未だなく、それぞれ普通のオンボロ自転車を調達し、荷台に米と干物と海苔を積んだ。
私のはリヤカーを引く重く頑丈な自転車で、漕ぐだけでも力のいる代物である。
持参の荷物に更に5~6人用のテントを持ってゆくから、小わけしても相当重くなる。
記念ということもあって、日本橋からスタートすることにした。
そこへ集まるだけでも皆それぞれ大変だった。
当時の日本橋は今の様に頭の上に高速道路もない時代。

1日目は小田原のひとつ手前の国府津(こうづ)の海岸でテント。
2日目は箱根の頂上にある芦の湖まで。
小田原を過ぎた当りから登りになり、漕ぐどころではなく、1日中自転車を押して歩いた。
その頃の1号線は七曲の連続でしかも狭い。(今では1日1国として残っているだけだろうか)。
清も根も尽き果てて夕方にようやく湖畔。テントを張る気力、体力もなく、客の呼び込みおじさんに連れられて、小さな安旅館。
3日目は快適だった。三島迄が全部下りだからだったからだが、1号線と分れて伊豆長岡まで辿りつき、寺に頼み込み本堂で寝た。
これには逸話がある。
その頃どういう事情か知らないが、亡友は田園調布にあるお宅の1室に1泊2食付で下宿していた。
そこへはちょくちょく出入りしていて大家さんと顔見知りになっていたが、3学期の卒業試験の最中、たまたま5人が集まり、酒盛りが始まってしまった。
私自身もそうだか皆も初めてのアルコールだったろう。翌日は古文の試験である。
飲み出す前に2学期末の古文の点数を云い合い、「お前はヤバイから明日行け。」残ったのは3人。
ぐでんぐでんに酔っ払い、朝2人を見送った後また寝入ってしまった。
11時頃だったか突然雨戸が明き、すごい型相で亡友の母親が立っていた。
「あんた達何やっているの!すぐ学校へ行きなさい。」
寝呆け眼で辺りを見廻したら誰かが洗面器に吐き、それがひっくり返って壁が汚れている。それをそのままにしてトロトロ学校へ行った。
担任の鈴木門也先生が怒った顔で仁王立ちして「お前達卒業できないからな。兎に角明日父親を学校へ寄越せ。」
翌日3人の父親が学校へよばれ、何か言われた。その内容は知らないが、帰って来た父親は何も云わず、唯ニヤニヤしていた。
無事卒業した私達は厚かましくも担任に、身分証明書を頼んだ。そして校長先生の判入りで「この者達は本校の卒業生である」との書類を持参して旅に出ていた。
それを見せて寺の住職の快諾を得たのであった。
門也さんはその2年後位に急逝され、慌てて皆でお焼香に行った。
これ以後は次回へ。
# by sunnystep_bigin | 2010-04-09 17:59 |
親父のつぶやき