前回に続き亡友のことを続けます。
伊豆半島一周の4日目は土肥まで行った。大仁、修善寺を通過して青羽根から現在の136号をとおり船原峠越えである。
その頃は国道~号という呼称はなく、しかも1級と2級とに分かれていた。例えば現在の1号線は1級東海道線である。それが全て~号線となったのは昭和40年3月からだそうだ。従って私たちの通った136号はその頃は未だ名称としてはなく(2級国道下田三島線)、しかも現在とは道が違っていた。今では大仁、修善寺共町のはずれを直線的に開発されているが、当時は街の中をうねうねと通じていた。そして特に修善寺では現在の地図で見ると136号は狩野川の左を通っているが当時は川を挟んで右側を通っていて現在は県道349号となっている。
船原峠は箱根ほどではないが、その登りを皆必死で登り、ようやく土肥へ辿り着き海岸でテント。5日目は下田まで、仲間の1人に親類がいらっしゃるということなのでお世話になるようなんとしてでもという次第。
今の136号のようにアスファルトでしかも直線的な道路ではなく、全て砂利道でしかも途中にある部落(宇久須、安良里、田子等)へいちいち下り、また登りの連続だった。ちなみに136号は昭和54年~5年頃に現在の姿になったようで、そのきっかけは当時の知事が西伊豆出身の方でみるにみかねて整備なさったのでしょう。
私達はその旧国道の砂利道を景色どころではなく庶二無二漕ぎ続けて松崎まで走り、半島を横断する現県道15号を下田に向かった。
相変わらず砂利で途中婆娑羅(ばさら)峠越えである。峠にはトンネルがあったがそれは明治41年のもの(現トンネルは昭和45年)。従って巾は狭く出口は見えるが1車線程度のもの。トンネルまでと出てからも七曲りでくねくねしていて勿論砂利道であった。もう夕方で冗談どころか口もきかず下田へ向かう。そして可成り下ったところで蓮台寺温泉の明かりが見え出した。勇気百倍でなんとか下田に着いたのは夜だった。皆疲れ切っていて親類宅で2晩お世話になった。
そしてこれ以上の旅行は無理と衆議一決して、荷物と自転車はそれぞれ自宅へ送った。身体ひとつ交通機関で帰ったのであるが、その頃は未だ伊豆急がなく(開通は4年後の38年)バスで伊東まで行き、伊東線東海道線と乗り継いで帰った。ただ帰途のことは全く憶えておらず、どの道をバスで走ったのか(当然135号も全線は今のように開通していない)勿論景色などは見ることもなく寝入っていたと思う。
亡友のこととは話が逸れ気味であるが本題はこれからであって、ガンが発覚する半年くらい前に1泊で私宅へご夫婦で来たことがあった。
その時半日かけて50年前に走った道を案内したのだが、大仁、修善寺同様町の中を松崎、下田とも通っており「当時はこの道を走ったはずだ」と連れ走ったのだった。走り出して30分ほど経ったとき、後部席に居た奥さんが車酔いし出し、ビニール袋を口に当てて「ゲーッ」とやっている。私が「オイ、どうする」と声を掛けたら彼は「しょうがない。このまま続けてくれ」とのこと。奥さんは文句も言わず青い顔をしながら私達に付き合ってくれた。
圧巻は婆娑羅トンネルである。現在のトンネルから2~30m離れた山奥側にそのまま残っており、両入り口共に頑丈な鉄格子で囲って使用不能となっているだけで内部の様子はなんとか分かるようになっている。
彼はそれを見て「ウーム、俺たちは細くて薄暗いこのトンネルを走ったのか」と感心しきりであった。そして現県道のところどころに当時七曲りだったS字の道が残っているので、そこをいちいち走ってみせた。勿論、松崎、下田の町なか道も全部車で走って見せた。彼は「そうだよな、あの頃はこんな桜はなかったよな」と言う。現在の15号沿いには松崎も下田も染井吉野が大木に成って立っているのである。
「人は死ぬ時、過去を走馬灯のように思い出す」と云われているが、
彼もきっとこの時のことを思い出してくれたであろう。
私は朝に夕に彼を思い出し、「オーイ、元気でいるか」と声をかけている。
いずれ私も彼のそばに行く時は来るが、その時声をかけ合うどころか目と目で合図すら出来ないけど、いのちといのちはきっと通ずるであろう。
22年4月23日 サニーステップ親父