これからは少し下田市街地を紹介しましょう。
「弥治川通り」(別称ペリーロード)
江戸の中・後期からつい最近まで下田で一番にぎやかだったのはここだろう。
要するにここは昔の花柳街。昭和32年頃、売春禁止法ができ、それをきっかけにして衰退していったのだろうが、当時の面影は今も残っている。80歳を過ぎた近所のご老人から「俺も若いころは一日道を歩いて通ったものよ」と聞いたことがある。しかし客の大半は漁師であり、沿岸を通る運搬船の船員だったであろう。この廻りには今も少し残る銭湯があり、そこに入って身を清め、一杯ひっかけて女郎屋に行ったのだろう。
話は少し変わるが、女郎屋は江戸初期にもあった。
場所は弥治川と全然違い、白浜の奥にあり1600年の慶長時代から100年以上は続いたのだろうか。
今では小屋、屋敷の跡など全くなく、唯地名「女郎山」だけが残っているだけである。
そこを目指して歩いたのは縄地金山の抗夫達だった。
縄地は白浜の北隣り、河津町の南端にある部落で現在は12~30世帯前後だろうか。
しかし縄地金山は慶長小判の何パーセントかを占める程の鋼山だったのであり、金山奉行の大久保長安も陣頭指揮を執ったようで、縄を地面に張って測量・計測したのが地名の由来であろう。江戸初期は7000人らの鉱夫がいたようで、その連中が女郎山に通った。
それにしても人里離れたあの山中で生きた彼女達の人生を思うと同じ人間として心が痛んで止まない。
(縄地金山は昭和30年代後半まで細々と続いたようで、試堀の為の縦穴抗が今でも山のいたるところにあり、有刺鉄線が張られ、小さい穴は板で塞がれている。「アレをしたのは私達よ」と云う85歳のおばあさんが近所に住んでいる)